良い悪いは別として、自分の過去の職業病的なものだろうと
今では整理しているのだが、人の言葉の裏側を常に意識して
会話する習慣が身に付いてしまった。
花を見て、根を考えるのもそうした癖から来るのである。
なぜその言葉が出るのか?
なぜその花はそこに咲くのか?
なぜ自分はそう話すのか?
ひとつでもその裏側に行くと、次の展開が見え易い。
将棋が好きなのは、小学生の頃からで、もしかすると
そうした相手の裏を読みながら、襞を合わせて対峙するのは
職業病というより、生来の性分のようなものかもしれないが。。。
気を回す自分が嫌になることが、昔から多かったようにも思う。
頭の中で、いつも会話がグルグルとシミュレーションをしながら
目の前の誰かと会話していた。
こうなると、相手とは別世界にいるわけで、時々非連続な文脈を
発することとなり、今も時々カミさんが言うように、
『何故あなたが、今ここでその言葉を発するのか理解できない。』
なーんて事になったりするのである。
自分の中では、至極当然の成り行きなのだが、相手にしてみれば、
キャッチボールしてたと思ったら、急にバッティングし始めたような
ものであり、 まあ、その感想は当たり前である。
こうした、余計な肩の力(グルグル別回路)が、以前よりも少しだけ
抜けるようになって来たのは、「何でそうなっちゃうんだろう・・・?」
と、自問自答し続けて来る中で、
「やっぱ、どっかでかっこつけようとしてるんだろな~」
(もちろん何十年も前から、この言語に気づいていたわけだが・・・)
「所詮俺だしな~」、「かっこつけると、なんかかっこ悪いな~」
だんだんと、こういう感覚が強くなってきたためだろう。
もともと、思っていることと身体の動きは異なっているもので、
揃っている人がいるならば、相当、脳と身体の運動神経が良い。
自分は、そう思うのです。。。
さて、得意の飛ぶセンテンスで繋げば、
『東京人より関西人のほうが自殺し難いのではないか?』 (笑)
笑いの原点にあるのは、かっこ着けないこと、落とすこと。
落ちる高さも必要だし、その自らを落としてでも受けを狙う・・・。
その道を究めるのは難しいが、物事全般の対処法としては、
どうも、この世の中、そちら方が楽なのかもしれない・・・。
今日もどこかで、命を絶つ人が絶えない。
自分を笑えたら・・・、笑われる自分を好きになれたら・・・。
そうはならないハズ・・・。
そのように、かすかに信じている夜であるが、、、
いやー、しかし外は寒い。 完全に身体が冷えた。
見上げれば、流れる雲間から見える白い月が、 時に光量を増し、
優しく静かに見守ってくれている。
お月様はありがたいのだ。
~ 寒いので了 ~